
琥珀色の夜、手首の「本物」と昔の自分
夜更けにひとりで飲む安ウィスキーは、どうしてこうも余計なことを思い出させるのだろうか。
安物のグラスを揺らしながら、ふと左手首を見る。そこには、数年前にようやく手に入れた「本物」が鎮座している。かつて雑誌の表紙でしか見ることができなかった、あの鈍い光を放つステンレスの塊だ。
今でこそ、こうして本物を巻いて「時計が好きだ」なんて顔をしているが、私の時計人生の出発点は、お世辞にも褒められたものじゃない。
若い頃の私は、とにかく背伸びをしたかった。
中身のない自分を、何か価値のあるものでコーティングしたかったのだろう。ネットの怪しい隅っこで見つけた「オマージュ」に手を出したのは、そんな浅はかな虚栄心からだった。本物によく似た、でもどこか安っぽいロゴが入ったそれを手首に巻いて、私は「どうだ」と言わんばかりに街を歩いた。
正直に言おう。今となっては、いい歳した大人がオマージュを巻くのは、少し気恥ずかしい。
「本物には手が出ないけれど、雰囲気だけでも……」という、あの独特の言い訳がましい空気。それを手首にまとっている自分を想像すると、今の私は少しだけ顔が赤くなる。それは酔いのせいだけではないはずだ。
だが、面白いもので、あの「似て非なるもの」を巻いていなければ、私は今こうして本物を愛でる男にはなっていなかっただろう。
安っぽい機械の音、ズレる精度、メッキが剥がれて見えてきた真鍮。それらに触れるたび、私は知ってしまったのだ。デザインの裏側にある「凄み」を。なぜ本物が何十年も愛され、何百万もするのか。その理由を、私は逆説的に、オマージュウォッチから教わったのだと思う。
「いつか、このデザインに相応しい人間になって、本物を手に入れる」
あの頃の私が抱いた、身の程知らずな決意。それは、冴えない日々を生き抜くための、小さな、けれど確かな燃料だった。
今の私は、夜な夜なこの「本物」を眺めながら、当時の自分を笑い飛ばしている。
「おい、あんな偽物で満足してたのかよ」と。
けれど、その声はどこか優しい。あの時、安っぽいオマージュを巻いて悦に浸っていた、若くて、愚かで、真っ直ぐだった自分がいたからこそ、今この手首にある重みを、これほどまでに愛おしく感じられるのだから。
時計は、ただ時間を知るための道具じゃない。
私にとっては、これまでの恥ずかしい自分や、必死だった日々を思い出すための、人生の栞のようなものだ。
さて、グラスが空いた。
もう一杯だけ注ぐとしよう。今度は、この本物の時計が刻む、静かな秒針の音を肴にして。
このブログは、オマージュから始まり、ようやく本物に辿り着いた、ある「おっさん」のたわ言だ。
格好悪い過去も、今のこだわりも、全部ひっくるめて語っていこうと思う。
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